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第7話 元実況者の声を、推しは知っていた

last update publish date: 2026-08-25 11:11:13

第7話 元実況者の声を、推しは知っていた

「私も、あなたを見ていました」

 白瀬こはるは、夜の商店街の灯りの下で、そう言った。

 その瞬間、俺は返事を忘れた。

 風が吹く。

 古いゲームセンターの看板が、かた、と小さく鳴る。

 遠くの日向弁当の方から、誰かがシャッターを閉め忘れたみたいな金属音がした。

 なのに、俺の耳には、こはるの声だけが残っていた。

 私も、あなたを見ていました。

 何だ、それは。

 ずるいだろ。

 俺はずっと、月乃こはねの配信に救われた側だと思っていた。

 炎上して、名前を燃やされて、誰の声も聞きたくなくなって、それでも深夜にこっそり流していた声。

 コメントもしなかった。

 投げ銭もしなかった。

 ただ、黙って聞いていた。

 画面の向こうの彼女は、俺のことなんか知らない。

 当然だ。

 リスナーの一人ですらなかった。

 ただの無言視聴者。

 深夜三時の暗い部屋で、イヤホン越しに勝手に救われていただけの男。

 それなのに。

 その声の主が今、俺の前で言っている。

 私も、あなたを見ていました、と。

「……いや」

 ようやく出た声は、自分でも情けないくらい掠れていた。

「いや、待て。何を」

「配信です」

 こはるは、静かに言った。

「クロユウさんの配信、見てました」

「……いつ」

「高校生の頃です」

 芽衣が横で「え、え、何の話?」という顔をしている。

 源三さんは腕を組んだまま黙っていたが、眉間の皺がさらに深くなっていた。

 たぶん、話の半分も分かっていない。

 でも、空気が重いことだけは分かっている顔だった。

 俺は、こはるから目を逸らせなかった。

「高校生って、お前……」

「月乃こはねになる前です」

「俺の配信なんか、見てたのか」

「はい」

「……何で」

 聞いてから、馬鹿な質問だと思った。

 何で見てたのか。

 配信者だった頃、俺はその理由が欲しくてたまらなかった。

 どうして見てくれるのか。

 何が面白いのか。

 どこが好きなのか。

 それをコメントで言われるたび、浮かれていたくせに、どこかで不安だった。

 見てくれる理由があるなら、見なくなる理由もある。

 好きなところがあるなら、嫌いになるところもある。

 俺はずっと、それが怖かった。

 こはるは、少し考えるように視線を落とした。

「夜、眠れなかったんです」

 その言葉は、ぽつりと落ちた。

「家にいても、学校のことを考えても、何かをしていても、ずっと頭の中がうるさくて。眠らなきゃって思うと余計に眠れなくて。そういう時に、ゲーム実況を流してました」

「俺以外にも、たくさんいただろ」

「はい。たくさん見ました。でも」

 こはるは、俺を見る。

「クロユウさんの声は、押しつけてこなかったので」

「押しつけ?」

「元気になれ、とか。頑張れ、とか。泣くな、とか。そういうことを、あまり言わなかったです」

 俺は、何も言えなかった。

 そんなことを意識した覚えはない。

 配信者時代の俺は、ただゲームをして、くだらないことを喋っていただけだ。

 敵にやられて叫んで、ガチャで爆死して机を叩き、視聴者のコメントにツッコミを入れて、たまに真面目な話をすると自分で照れくさくなって茶化した。

 立派な言葉なんて、何一つ持っていなかった。

「例えば」

 こはるは、少しだけ目を細めた。

「ホラーゲームの配信で、コメント欄に“明日学校行きたくない”って書いた人がいたんです」

「ああ……」

 覚えていない。

 覚えていないが、そういうコメントはたぶん何度もあった。

「他の人が、大丈夫だよとか、頑張れとか、行った方がいいよってコメントしていて。クロユウさんは、それを見て」

 こはるは、少しだけ口元を緩めた。

「“学校行きたくない日にホラーゲーム見てる時点で、だいぶ追い詰められてるだろ。とりあえず寝ろ。学校は明日の朝の自分と相談しろ。夜中の自分はだいたい判断力ないからな”って言いました」

「……俺、そんなこと言ったのか」

「言いました」

「適当すぎないか」

「でも、楽でした」

 こはるは言った。

「頑張れって言われるより、明日の朝の自分と相談しろって言われる方が、楽でした」

 俺は、思わず視線を逸らした。

 恥ずかしかった。

 普通に、恥ずかしかった。

 褒められているのかどうかも分からない。

 でも、昔の自分の適当な言葉が、目の前の女の子に残っていた。

 それが何だか、ひどく落ち着かなかった。

 芽衣が、じっと俺を見ている。

「悠斗兄、昔はいいこと言ってたんだね」

「昔は、って何だ」

「今はだいたい言い方が面倒くさい」

「お前の評価、雑に刺さるな」

「でも、今の話はちょっといい」

 芽衣は、こはるに向き直った。

「こはるちゃん、悠斗兄のこと知ってたんだ」

「はい」

「炎上する前から?」

「はい」

「……そっか」

 芽衣は、少しだけ目を伏せた。

 たぶん、芽衣なりに俺の過去を想像しているのだろう。

 この商店街に来た頃の俺。

 目が死んでいたとか、廃棄前のもやしとか、散々言われたあの頃。

 でも、芽衣は俺がクロユウだった頃を知らない。

 配信画面の中で喋っていた俺を知らない。

 こはるは知っている。

 それが、妙に不思議だった。

「私」

 こはるは、少し言いにくそうに続けた。

「コメントは、したことがありません」

「それは別に」

「でも、ずっと見ていました」

「……そうか」

「ゲームが上手いところも好きでした。でも、それより」

 こはるは、少し迷ってから言った。

「負けたキャラクターにも、怒らなかったところが好きでした」

「は?」

 思わず変な声が出た。

「負けたキャラクター?」

「はい。味方のNPCがミスした時とか、ゲーム内のキャラクターが失敗した時、クロユウさん、よく怒るふりはしてました。でも最後には、“まあこいつもこいつで頑張ったんだろ”って言ってました」

「……言ってたか?」

「言ってました」

「俺、そんな優しい奴じゃなかったぞ」

「優しいというより」

 こはるは、少しだけ考えた。

「見捨てるのが下手な人だと思いました」

 その言葉に、俺は黙った。

 見捨てるのが下手。

 それは褒め言葉なのか。

 欠点なのか。

 たぶん、両方だ。

 俺は、画面の中のキャラクターにも、コメント欄の弱音にも、目の前で泣いている女の子にも、うまく背を向けられない。

 それで何かを救えるわけではない。

 むしろ面倒を拾うだけのこともある。

 源三さんが言っていた。

 お前は昔から面倒なもんを拾う、と。

「黒瀬さん」

 こはるは、今度は俺の今の名前を呼んだ。

「炎上した時も、見ていました」

 その一言で、夜の空気が変わった。

 俺の胸の奥が、ぎゅっと縮む。

 炎上した時。

 その言葉は、いまだにうまく飲み込めない。

 俺は、なるべく平静な声を出した。

「……見なくてよかったのに」

「見ました」

「いいもんじゃなかっただろ」

「はい」

「なら、何で」

「信じたかったからです」

 こはるは、まっすぐ言った。

「切り抜きだけじゃなくて、元の動画も探しました。配信のアーカイブも見ました。全部は見られなかったけど、見られる範囲で見ました」

「……」

「あの切り抜きだけでは、分からなかったから」

 俺は息を止めた。

 あの時、どれだけ説明しても、誰も聞いていないと思っていた。

 元動画を見てほしい。

 前後を見てほしい。

 字幕だけじゃなく、ちゃんと声を聞いてほしい。

 そう思っていた。

 でも、誰もそんな面倒なことはしないと思っていた。

 切り抜きの方が短い。

 怒りやすい。

 分かりやすい。

 元動画なんか、長くて、退屈で、都合が悪い。

 なのに。

 目の前のこはるは、それを見たと言っている。

「……馬鹿だろ」

 俺は、やっとそれだけ言った。

 こはるが少し驚く。

「え」

「わざわざ炎上してる奴の元動画なんか見るなよ。時間の無駄だろ」

「無駄じゃないです」

「無駄だよ。高校生だったんだろ。もっと楽しいこと見ろ。猫動画とか、飯テロとか、ショートで流れてくる謎ダンスとか」

「謎ダンス」

「あるだろ、よく分からないけどみんな踊ってるやつ」

「黒瀬さん、言い方がおじさんです」

「二十八をおじさん扱いするな」

「芽衣さんも言ってました」

「あいつは許さない」

 こはるは少しだけ笑った。

 けれど、すぐに真面目な顔に戻る。

「無駄じゃなかったです」

「何で」

「私は、見ていた人が本当にそういう人だったのか、知りたかったから」

「それで?」

「分からなかったです」

 思わず、笑いそうになった。

「正直だな」

「はい」

「そこは、黒瀬さんは悪くなかったです、って言う流れじゃないのか」

「でも、全部は分かりませんでした。切り抜きが悪意のあるものだとは思いました。でも、黒瀬さんが全然悪くなかったかどうかは、私には分かりません」

「……だろうな」

 それでいい。

 むしろ、それでいい。

 俺は完全な被害者ではない。

 そう言い切るには、俺自身の中にも濁ったものが多すぎた。

 数字に焦っていた。

 案件を雑に扱った時もある。

 スタッフにきつい言い方をした日もある。

 リスナーのコメントを笑いにするつもりで、少し乱暴に拾ったこともあるかもしれない。

 切り抜きは悪意だった。

 でも、そこに切り取れる隙を作ったのは、たしかに俺でもある。

 こはるは、そこを誤魔化さなかった。

「でも」

 彼女は言った。

「あの切り抜きに出ていた人だけが、黒瀬さんだとは思いませんでした」

 胸の奥が、変な音を立てた。

「……何だよ、それ」

「私が見ていたクロユウさんは、あんなふうに誰かを雑に捨てる人じゃなかったから」

「買いかぶりすぎだ」

「そうかもしれません」

「おい」

「でも、そう思いました」

 こはるは、静かに続ける。

「炎上している時、私は何も言えませんでした。コメントもしませんでした。擁護もしませんでした。怖かったから」

「それが普通だ」

「普通でも、ずっと残っていました」

「残る?」

「はい」

 こはるは、自分の胸元を押さえた。

「自分が好きだった声が、みんなに殴られているのに、私は何もできませんでした。怖くて、見ているだけでした」

「何かしても、たぶん燃えてた」

「そうかもしれません」

「だから、気にするな」

「気にします」

 即答だった。

「私は、その後に月乃こはねになりました。声で誰かを助けたいって思ったんです。大げさかもしれないけど、夜眠れない人に、少しだけ一緒にいられる声になりたいって」

 こはるは、俺を見た。

「その最初にいたのは、クロユウさんでした」

 俺は、何も言えなかった。

 言葉が喉で止まった。

 俺は彼女に救われたと思っていた。

 炎上後の俺が聞いていた声。

 夜中に生き残るための音。

 でも、彼女は彼女で、俺の声をどこかに持っていた。

 何だよ、それ。

 そんな都合のいい話があるか。

 そう思った。

 でも、目の前のこはるは、作り話をしている顔ではなかった。

 むしろ、ずっと言えなかったことを、恐る恐る差し出しているような顔だった。

 芽衣が、ぽつりと言った。

「何それ」

 俺とこはるが、同時に芽衣を見る。

 芽衣は、目元を少し赤くしていた。

「いや、何それ。お互い知らないところで救われてたとか、ちょっとずるくない?」

「ずるいって何だ」

「ずるいよ。そんなの、横で聞かされる幼なじみじゃないけど幼なじみみたいな立場の私、どういう顔すればいいの」

「普通にしてろ」

「普通って何。私、今ちょっと泣きそうなんだけど」

「泣くのか」

「泣かない。深夜の商店街で全員泣くのは絵面が終わる」

 芽衣は鼻をすすった。

 こはるが、少し慌てる。

「芽衣さん」

「違うから。これはあれ。夜風が目にきただけ」

「目に」

「あと眠い。あと心が忙しい。あと悠斗兄が昔ちょっとだけ人の役に立ってたのが意外で」

「最後だけ余計だろ」

 源三さんが、ほうきを肩に担いだまま、ぼそっと言った。

「若い頃の声が、どこで誰に届くかは分からんもんだ」

 全員が源三さんを見た。

 源三さんは不機嫌そうに眉を寄せる。

「何だ」

「いや」

 俺は言った。

「急にまともなこと言うから」

「わしはいつもまともだ」

「それは諸説あります」

「黒瀬」

「はい」

「その娘を連れて戻るぞ。夜中に長話をする場所ではない。冷える」

 源三さんの言葉で、ようやく現実に戻った。

 そうだ。

 今は深夜の商店街だ。

 こはるはまだ体調が悪い。

 ここで過去の配信について語り合っている場合ではない。

「戻れるか」

 俺が聞くと、こはるは小さく頷いた。

「はい」

「本当に?」

「少し、足が痺れました」

「何で正直なようでそこだけ控えめなんだ」

 芽衣がこはるの反対側に回る。

「はい、じゃあ両側から支えます。悠斗兄、変な顔しない」

「まだ何もしてない」

「こういう時、すぐ“俺が触っていいのか問題”で固まるでしょ」

「心を読むな」

「顔に書いてある」

「俺の顔、本当に情報漏洩がひどい」

 こはるが小さく笑った。

「黒瀬さんは、顔に出ます」

「お前まで言うのか」

「はい」

「配信者として終わってるな」

「でも、それがよかったです」

「え?」

「顔に出るから、嘘をついても分かります」

 こはるは、ほんの少しだけ微笑む。

「見てないって言った時も、見たんだなって分かりました」

「そこは見逃してほしかった」

「でも、見てないことにしてくれました」

「実際は見たけどな」

「はい」

「そこまで正確に覚えなくていい」

 芽衣が横で「何の話?」と目を細める。

「深掘り禁止」

 俺が言うと、芽衣はますます怪しむ。

「怪しい」

「怪しくない」

「怪しい時の言い方だ」

「深夜の商店街で追及するな」

 そんなくだらないやり取りをしながら、俺たちは喫茶こもれびへ戻った。

 こはるは途中で一度ふらついたが、歩けないほどではなかった。

 芽衣が持ってきたもう一つのおにぎりを「非常食」として握らせると、こはるは困りながらも大事そうに持った。

 源三さんは先頭を歩き、ほうきで道を確認するように進む。

「源さん、それ本当に何のためのほうきなんですか」

「威圧だ」

「威圧できてますか」

「少なくとも猫は避けた」

「猫相手か」

 商店街の灯りは少ない。

 でも、さっき一人で走っていた時ほど怖くはなかった。

 芽衣がいる。

 源三さんがいる。

 こはるがいる。

 終わりかけの商店街は、夜でも完全には一人にしない。

 喫茶こもれびに戻ると、店内の灯りがやけに温かく見えた。

 ソファには毛布。

 テーブルにはタオルに包まれたスマホ。

 冷めたカフェオレのカップ。

 卵焼きの容器。

 フレンチトーストの皿。

 散らかっている。

 でも、誰かがいた跡だった。

「座れ」

 俺が言う前に、源三さんがこはるに命じた。

 こはるは素直にソファへ座る。

 芽衣が毛布をかける。

「水飲める?」

「はい」

「白湯にする?」

「……はい」

「悠斗兄、白湯」

「俺は店主兼給湯係か」

「今さらでしょ」

 俺は厨房に向かった。

 電気ケトルに水を入れる。

 スイッチを押す。

 湯が沸くまでの音を聞く。

 その間、俺の頭の中では、こはるの言葉が何度も繰り返されていた。

 私も、あなたを見ていました。

 クロユウさん、ですよね。

 私が見ていたクロユウさんは、あんなふうに誰かを雑に捨てる人じゃなかったから。

 苦しい。

 嬉しいのに、苦しい。

 俺はずっと、あの頃の自分を捨てたつもりでいた。

 クロユウは燃えて死んだ。

 黒瀬悠斗だけが、こもれび商店街に流れ着いた。

 でも、こはるの中には、まだクロユウがいた。

 俺が捨てた名前を、彼女は捨てていなかった。

 それは救いなのか。

 呪いなのか。

 まだ分からない。

 白湯を持って戻ると、こはるはソファで毛布にくるまり、芽衣に何かを聞かれていた。

「じゃあ、月乃こはねって、すごい人なの?」

 芽衣が聞いている。

 俺は足を止めた。

「芽衣」

「何」

「直球すぎる」

「だって分かんないんだもん。名前は聞いたことあるような気がするけど、VTuberっていっぱい居るし」

 こはるは少し困った顔をしていた。

「すごいかは、分かりません」

「人気なんでしょ?」

「……たぶん」

「たぶんって」

「数字は、あります」

 こはるの言い方に、芽衣が少し眉を寄せる。

「数字はあるけど、自分ではすごいと思えない感じ?」

 こはるは、驚いたように芽衣を見た。

「……はい」

「分かる。うちの弁当屋も、たまにテレビで紹介された時だけ売れるんだけど、それで父さんが“うちは有名店だ”って調子乗って、翌週めちゃくちゃ仕込んで爆死する」

「爆死」

「数字って、人の感覚バグらせるよね」

「……はい」

「分かるんかい」

 俺が白湯を置くと、芽衣が俺を見上げた。

「悠斗兄もそうだったの?」

「何が」

「数字で感覚バグった?」

 深夜に聞くには、なかなか刺さる質問だった。

 こはるも、静かに俺を見る。

 俺は椅子に座り、少し考えた。

「バグったな」

 正直に言った。

「最初は十人見てくれただけで嬉しかった。コメント一つで一日浮かれてた。でも、登録者が増えると、千人見てても少なく感じる。昨日より少ないと失敗に見える。十万人に届いた時は嬉しかったのに、次の日から二十万が欲しくなる。八十万までいっても、百万人行ってない自分が負けてる気がする」

「うわ」

 芽衣が顔をしかめた。

「終わりないじゃん」

「ない」

「怖」

「怖いよ。しかも、怖いって言えない。周りから見たら成功してるから。贅沢な悩みって言われる」

 こはるが、小さく頷いた。

「分かります」

「だろうな」

「登録者さんが増えると、嬉しいです。でも、増えた分だけ、減るのが怖くなります。見られている数が増えると、失敗できない場所が広がる感じがします」

「広がる?」

「はい。狭い部屋で喋っていたはずなのに、気づいたら体育館みたいな場所に立たされている感じです。明るくて、たくさんの人が見ていて。でも、私はずっと同じ椅子に座って、同じマイクに向かっているだけなのに」

 その例えは、妙に生々しかった。

 俺にも分かった。

 一人の部屋で喋っているのに、何万人もの前に立っている感覚。

 肉体は動いていないのに、心だけが人前に晒される感じ。

「配信って、変な仕事だな」

 俺が言うと、こはるは小さく頷いた。

「はい」

「好きだったか?」

 こはるは、少し考えた。

「好きでした」

「過去形か」

「今も、嫌いではないです」

「嫌いではない」

「でも、好きだけではできなくなりました」

 その言葉に、俺は頷いた。

「それも分かる」

 芽衣が、俺とこはるを交互に見た。

「何か、二人だけで分かり合ってる感じ出すのやめて」

「出してない」

「出てる。配信者同士の傷の舐め合い空間ができてる」

「言い方」

「でも私も混ぜて。私は配信のことは分かんないけど、売上のことならちょっと分かる」

 芽衣は胸を張った。

「唐揚げが売れた日は嬉しい。売れない日はへこむ。でも、売れるからって父さんが無理して揚げすぎると、父さんが腰をやる。腰をやると店が止まる。だから、どんなに売れても父さんの腰は守らないといけない」

「全部弁当屋に変換されるな」

「でも同じでしょ?」

 芽衣はこはるを見る。

「こはるちゃんの場合、声が父さんの腰」

 こはるは、数秒沈黙した。

「……声が、父さんの腰」

「うん。大事にしないと店が止まる」

 俺は耐えきれずに笑った。

「ひどい例えだな」

「でも分かりやすいでしょ」

「悔しいが、分かりやすい」

 こはるも、口元を押さえて笑った。

 さっきまで泣いていたのに。

 クロユウの話であれだけ重くなったのに。

 父さんの腰で笑っている。

 人間の感情は忙しい。

 その忙しさが、妙にありがたかった。

 源三さんが立ち上がる。

「わしは帰る」

「こんな時間に?」

「老人は寝る時間だ」

「いや、そもそも起こしたの俺たちですけど」

「まったくだ」

 源三さんは、こはるに向き直った。

「娘」

「……はい」

「今度消える時は、置き手紙を書け」

「消える前提にしないでください」

 俺が言うと、源三さんは眉を上げた。

「人間は、消えたくなる時がある。消えるなと言って消えなくなるなら苦労せん。なら、せめて探す手間を減らせ」

 こはるは、少しだけ目を伏せた。

「……はい」

「戻る場所があるうちは、戻れ」

 源三さんはそう言って、ほうきを持ったまま店を出ていった。

 扉のベルが鳴る。

 その後、芽衣も帰ることになった。

「本当は泊まりたいけど、母さんに怒られるし、弁当屋の朝は早いので」

「お前、寝ろ」

「悠斗兄もね。カウンターで寝ると首やるよ」

「もうやってる」

「知ってる」

 芽衣は、こはるに手を振った。

「こはるちゃん。明日の朝、また来る。卵焼きいる?」

 こはるは、少し迷ってから言った。

「……甘い方を、少し」

 芽衣の顔が、ぱっと明るくなった。

「了解。甘い方、少し。父さんに言っとく」

「お父さんに、ありがとうございますって」

「言っとく。父さん、泣くかも」

「泣くんですか」

「若い女の子に卵焼き褒められたら泣く」

「日向家、情緒が揚げ物に近いな」

 芽衣は俺を睨んだ。

「うるさい。じゃあね」

 芽衣も帰っていった。

 店には、俺とこはるだけが残る。

 時計を見ると、午前三時半を過ぎていた。

 さすがに眠い。

 だが、眠気よりも、妙な緊張が残っている。

 こはるはソファに座り、白湯のカップを両手で持っていた。

「寝られそうか」

 俺が聞くと、彼女は少し頷いた。

「たぶん」

「たぶんか」

「眠いです。でも、少し怖いです」

「また起きたら俺がいないか?」

 こはるは首を横に振った。

「黒瀬さんは、いると思います」

「信用されたな」

「はい」

「じゃあ何が怖い」

 こはるは、テーブルの上のスマホを見た。

「朝になったら、また現実が来るから」

「……そうだな」

 明日になれば、真柴さんから連絡が来るだろう。

 休止告知への反応も広がっているだろう。

 こはるの家族も黙っていないかもしれない。

 神谷レンも、何か動くかもしれない。

 夜の商店街で語り合ったからといって、世界が優しくなるわけではない。

「でも、朝飯も来る」

 俺は言った。

 こはるが俺を見る。

「芽衣の卵焼きが来る。源さんも文句を言いに来る。佐伯さんもたぶんナポリタンを半分残す」

「佐伯さん、毎日来るんですか」

「だいたいな」

「半分残すんですか」

「だいたいな」

「……すごい人ですね」

「すごいの方向性が分からない」

 こはるは少し笑った。

「朝になるのは怖いです。でも」

「でも?」

「卵焼きは、少し楽しみです」

「なら、朝まで生きる理由としては十分だ」

「そんな小さな理由でいいんですか」

「小さい理由の方が、持ち運びやすい」

 こはるは、その言葉を少し考えるように聞いていた。

「持ち運びやすい」

「ああ。でかい夢とか、大きな使命とか、誰かの期待とか、そういうのは重い。疲れてる時には持てない。卵焼きくらいでいい」

「今日の唐揚げみたいです」

「商店街哲学が浸透してきたな」

 こはるは、カップを置いた。

 そして、少し緊張した顔で言った。

「黒瀬さん」

「ん?」

「私、あの時……黒瀬さんを助けられませんでした」

 話が戻った。

 クロユウの炎上。

 彼女が何も言えなかったこと。

 俺は、ため息をついた。

「助けなくていい」

「でも」

「高校生だったんだろ。何も背負うな」

「でも、見ていました」

「見てくれてたんだろ」

 こはるが顔を上げる。

「それだけで、俺は今、少し救われた」

 自分で言って、胸が痛くなった。

 本当だった。

 あの時、誰も見ていないと思っていた。

 誰も元の俺なんか覚えていないと思っていた。

 切り抜きで作られた悪役だけが残ったと思っていた。

 でも、こはるは見ていた。

 何も言えなかったとしても、見ていた。

 それは、俺が思っていたよりずっと大きかった。

「だから、もういい」

「……本当に?」

「本当に」

「怒ってませんか」

「怒ってない」

「嘘じゃないですか」

「これは嘘じゃない」

 こはるは、じっと俺を見る。

「顔に出てますか」

「出てないと思う」

「少し、泣きそうです」

「出てたか」

「はい」

「最悪だな」

 俺は顔を手で覆った。

 泣いてはいない。

 泣いてはいないが、目の奥が熱い。

 深夜三時半は、人間の涙腺を雑にする。

 こはるが、静かに言った。

「黒瀬さん」

「何だ」

「泣いてもいいと思います」

 俺は、少し笑った。

「推しに許可される涙、重いな」

 こはるは、きょとんとした。

 言ってしまった。

 推し。

 俺は固まる。

 こはるも、数秒遅れて意味を理解したように、顔が少し赤くなった。

「……推し」

「いや、今のは」

「私、推しですか」

「言い方が悪かった」

「悪いんですか」

「悪いというか、今この状況で言うには距離感が」

「黒瀬さん」

「はい」

「慌ててますか」

「慌ててる」

「顔に出ています」

「もう顔を捨てたい」

 こはるは、口元を押さえて笑った。

 その笑いは、月乃こはねの笑いではなかった。

 白瀬こはるの、小さな笑いだった。

 俺は、それを見て少しだけ救われた気がした。

 それから、こはるはソファに横になった。

 今度は、スマホをテーブルの上に置いたまま、手を伸ばさなかった。

「電源、切るか?」

 俺が聞くと、こはるは少し迷った。

「……今日は、このままで」

「いいのか」

「はい。タオルに包んでおきます」

「物理対策だな」

「はい」

 こはるは、自分でスマホをタオルに包んだ。

 それから毛布にくるまる。

「黒瀬さん」

「いる」

「まだ何も言ってません」

「言いそうだったから」

「……約束ですか」

「約束」

 こはるは安心したように目を閉じた。

 やがて、静かな寝息が聞こえ始める。

 俺はカウンター席に座り、今度こそ眠らないようにコーヒーを淹れた。

 まずい。

 でも、飲める。

 午前四時前。

 店内は静かだった。

 外の商店街も眠っている。

 俺は、ふとテーブルの上のスマホを見た。

 タオルの隙間から、画面が一瞬だけ光った。

 通知。

 見ない。

 そう思った。

 しかし、画面に表示された名前だけが、また目に入ってしまった。

【神谷レン:こはねちゃんの休止、聞いたよ。心配だから直接話したい】

 俺は、カップを握る手に力を込めた。

 こはるは眠っている。

 静かに、ようやく。

 神谷レン。

 こいつは、どうしてこんなタイミングで入ってくる。

 通知は続いた。

【神谷レン:クロユウの店にいるって噂、本当?】

 俺の背筋が冷えた。

 噂。

 もう、そこまで漏れている。

 喫茶こもれびの静かな夜に、画面の向こうから、また火種が投げ込まれた。

 俺は、眠るこはるを見た。

 そして、小さく呟いた。

「……まだ、寝かせてやれよ」

 返事はない。

 スマホの画面だけが、暗い店内でぼんやり光っていた。

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    第19話 神谷レンの配信 神谷レンが配信で月乃こはねの休止に触れた。 それを知ったのは、夜ではなく、夕方だった。 喫茶こもれびの閉店準備をしている時、芽衣が裏口から飛び込んできた。「悠斗兄!」 声が大きい。 いつもの補給便の声ではなかった。 弁当袋も持っていない。 代わりに、スマホを握りしめている。 その時点で、嫌な予感がした。 最近の俺は、スマホを持って焦っている人間を見るだけで胃が反応する。 便利な進化だ。 たぶんいらない。「何だ」「レンが配信してる」 カウンターを拭いていた手が止まった。 白瀬こはるは窓際の席で、ゲームセンター用の新しいポップを書いていた。『負けても百円。 勝っても百円。 でも帰り道の気分は少し違います。』 いい文だった。 でも、そのペン先も止まった。 こはるは、顔を上げない。 ただ、指が白くなるくらいペンを握っている。「何を話してる」 俺が聞くと、芽衣は一瞬こはるを見た。 そして、言いにくそうに言った。「月乃こはねの休止」 店内の空気が、目に見えない膜みたいに張りつめた。 こはるは、ホワイトボードを手元に引き寄せる。 しばらくして、書いた。【見た方がいいですか】 俺はすぐに言った。「見なくていい」 こはるは、少しだけ俺を見る。【でも、私のことです】「だから見なくていい」 言い方が強くなった。

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    第18話 初めてのリスナー来店「すみません。ここって……夜の商店街の店ですか?」 若い男の声だった。 二人組。 年齢は二十代前半くらいだろうか。 片方は黒いリュックを背負った細身の男で、もう片方は少し丸顔で、手にスマホを持っている。 服装は普通。 表情も、普通。 悪意があるようには見えない。 だからこそ、俺は一瞬で判断できなかった。 悪意のある人間なら、分かりやすく警戒できる。 カメラを向けるとか、大声で名前を叫ぶとか、ニヤニヤしてスマホを構えるとか。 だが、目の前の二人は違った。 少し緊張して、少し期待して、少し恥ずかしそうに店内を見回している。 ラジオを聞いて、本当に来てしまった人間。 たぶん、そういう顔だった。 こはるは、窓際の席で固まっていた。 白いパーカーの袖を握りしめて、息を止めている。 芽衣も、補給便の袋を持ったまま目を細めた。 いつもの明るい顔ではない。 日向弁当の娘ではなく、こはるを守る側の顔だ。 俺は、カウンターの中で息を吸った。「いらっしゃいませ」 まず、そう言った。 喫茶店だから。 どんな客でも、最初は客として扱う。 源三さんの言葉が頭をよぎる。 店の中の客には茶を出せ。 入れたくない客は戸の外。 この二人は、まだ戸の内側に入れていいのか。 それを見極める時間が必要だった。「えっと、夜の商店街、まだ明かりついてます、っていうラジオを聞いて……」 丸顔の方が、少し慌てて言った。「いや、場所は

  • 炎上して全てを失った元ゲーム実況者の俺、田舎の寂れた商店街で“推しの中の人”を拾う 〜無口な天才VTuber少女と始める   第17話 まずいコーヒーがバズりかける

    第17話 まずいコーヒーがバズりかける まずいコーヒーが、少しだけ話題になった。 言葉にすると意味が分からない。 コーヒーというものは、本来うまい方がいい。 喫茶店にとって、コーヒーがまずいという評判は、普通に考えれば致命傷である。 少なくとも、俺はそう思っていた。 だが、ネットという場所は本当に分からない。 昨夜の匿名ラジオが終わってから数時間後、ラジオ用アカウントにいくつか感想が流れてきた。【夜の商店街って匿名ラジオ、ちょっといい。白湯飲みたくなるし、役に立たない日でも少しだけ息できる】【シャッターを上げるだけの日、刺さった】【今日はこれでいいツナマヨ、商品化してほしい】 そこまでは分かる。 いや、ツナマヨの商品化は日向家案件なので少し怖いが、まだ分かる。 問題は、その次だった。【まずいコーヒー飲んでみたい】 これである。 俺は、朝の喫茶こもれびのカウンターで、その投稿を見つめながら固まった。 投稿には、いいねが四つ付いていた。 四つ。 小さい。 ものすごく小さい。 昔の俺なら気にも留めなかった数字だ。 だが今の俺には、その四つが妙に重かった。 四人も、まずいコーヒーに興味を持っている。 この世界は大丈夫なのか。「……何でだよ」 俺は思わず呟いた。 窓際の席でホワイトボードに何かを書いていたこはるが顔を上げた。 今日は声を温存する日だ。 昨日のラジオで思ったより喋ったため、朝はなるべく声を使わないことになっている。 こはるはホワイトボードに書いた。

  • 炎上して全てを失った元ゲーム実況者の俺、田舎の寂れた商店街で“推しの中の人”を拾う 〜無口な天才VTuber少女と始める   第16話 役に立たない日のラジオ

    第16話 役に立たない日のラジオ 翌朝、喫茶こもれびのテーブルには、白湯と卵焼きと、昨日のラジオのコメント欄が並んでいた。 正確には、コメント欄はノートパソコンの画面の中にある。 でも、感覚としては、テーブルの上に置かれているようだった。 白湯のカップ。 少し焼き目のついた甘い卵焼き。 日向弁当の小さなおにぎり。 そして、夜のどこかから届いた、知らない人たちの言葉。【いいと思う】【今日、何もできなかった】【仕事休んだ】【学校行けなかった】【一日布団にいた】【でも今これ聞いてる】【役に立てない日、あります】【生きてていいって言ってほしい】【白湯しか飲んでない】【でも白湯飲めたから勝ちにしたい】 白瀬こはるは、そのコメント欄を何度も読んでいた。 朝から、ずっと。 声は出していない。 喉を休ませるためでもあるし、昨日の電話と配信で、心の方が疲れているのもあった。 それでも、こはるは画面から目を離さなかった。 俺はカウンターでコーヒーを淹れながら、その様子を見ていた。「読みすぎると疲れるぞ」 こはるは、ホワイトボードに書いた。【疲れます】「じゃあ休め」【でも、読みたいです】「疲れるのに?」【はい】 少し間を置いて、彼女は書き足す。【私だけじゃなかったので】 その文字を見て、俺は何も言えなくなった。 昨夜、こはるはラジオで問いかけた。『誰かの役に立てない日も、生きていていいんでしょうか』 それは、誰かに向けた問いであると同時に、こはる自身がずっと自分に投

  • 炎上して全てを失った元ゲーム実況者の俺、田舎の寂れた商店街で“推しの中の人”を拾う 〜無口な天才VTuber少女と始める   第15話 こはるの母からの電話

    第15話 こはるの母からの電話 白瀬こはるの母親から連絡が来たのは、昼過ぎだった。 その日は、ラジオを休みにする予定だった。 こはるの喉は昨日より落ち着いていたが、まだ長く話すと掠れる。 真柴さんからも「今日はなるべく声を使わないでください」と連絡が来ていたし、芽衣も「今日は完全休養。補給班命令」と言っていた。 だから、喫茶こもれびの昼は比較的静かだった。 源三さんは午前中に来て、コーヒーを飲み、いつも通り「まずい」と言って帰った。 佐伯さんはナポリタンではなく白湯だけ頼み、「白湯って、何もしない味がするわね」と謎の名言を残した。 八百屋の親父さんはきゅうりのポップが気に入ったらしく、「まっすぐじゃないけど、ちゃんと冷たい」が売れていると報告しに来た。 こはるは窓際の席で、ホワイトボードではなくメモ帳に新しいポップ案を書いていた。『古いゲーム機です。 でも、負けた時の悔しさは新しいです。』 ゲームセンターの朝日さん用らしい。 俺がそれを見て「名文だけど客が怖がらないか」と言うと、こはるは少しだけ笑い、下にこう書き足した。『勝ったら、もっと新しいです。』「商売が分かってきたな」 俺が言うと、こはるはホワイトボードに書いた。【商店街に染まってきました】「染まると戻れなくなるぞ」【少し怖いです】「だろうな」【でも、嫌じゃないです】 その文字を見て、俺は少しだけ安心していた。 嫌じゃない。 最近のこはるは、その言葉をよく使うようになった。 好き、と言うにはまだ怖い。 楽しい、と言い切るにはまだ心が追いつかない。 でも、嫌じゃない。 そのくらいの距離感が、今の彼女にはちょ

  • 炎上して全てを失った元ゲーム実況者の俺、田舎の寂れた商店街で“推しの中の人”を拾う 〜無口な天才VTuber少女と始める   第14話 芽衣は、少しだけ面白くない

    第14話 芽衣は、少しだけ面白くない 日向芽衣は、明るい。 少なくとも、この商店街ではそういうことになっている。 日向弁当の娘。 いつも声が大きくて、配達用の自転車を全力でこいでいて、揚げたての唐揚げを一つ多く入れたことを母に怒られ、父の揚げすぎを止め、常連の老人に雑に絡み、客の愚痴を「はいはい」と聞き流しながら、最後には笑って弁当を渡す。「芽衣ちゃんがいると、店が明るくなるね」 そう言われるのは、嫌いではなかった。 むしろ、嬉しかった。 自分がいることで、誰かが少し楽になるなら。 沈みかけた商店街の中で、日向弁当の灯りが少しでも明るく見えるなら。 それは、まあ、悪いことではない。 でも、たまに思う。 明るいって、便利な言葉だ。 明るい子は怒らない。 明るい子は面倒を拾える。 明るい子は、冗談で返せる。 明るい子は、ちょっと傷ついても次の日には笑っている。 そんなルール、誰も言っていない。 言っていないのに、いつの間にか自分で守っている。「……面倒くさ」 芽衣は日向弁当の厨房で、卵焼きを巻きながら小さく呟いた。 朝の仕込みは戦争だ。 父は唐揚げを揚げている。 母はレジ横の予約表を確認している。 炊飯器からは湯気。 まな板の上には、刻まれた漬物。 ラジオからは、天気予報と交通情報。 いつもと同じ朝。 なのに、芽衣の頭の中には、昨夜の匿名ラジオのコメントが残っていた。【元気そうって言われると、元気じゃないって言えなくなる】 あれは、たぶん自分にも関係がある。 認めたくないけど、ある。「芽衣、

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